はじめに
東京オリンピックが来年にせまってきました。近代オリンピックの父と言われるクーベルタンが広めた言葉の「参加することに意義がある」は、オリンピック精神を象徴するとされてきました。現在では、ほとんどのオリンピック選手は参加するだけでなく、金メダルを目指して惜しみない努力を積み重ねています。オリンピック選手でなくとも、アスリートは本能的に競技能力の向上を目指します。競技会はアスリートにとって晴れの舞台で、よい成績を残したいところです。しかし、コーチも含め不正な手段で競技能力を向上させようとしてきた歴史もあります。
ドーピングとは
ドーピングとは「スポーツにおいて禁止されている物質や方法によって競技能力を高め、意図的に自分だけが優位に立ち、勝利を得ようとする行為」のことです。また、ルールに反する様々な競技能力を高める「方法」や、それらの行為を「隠すこと」も含めて、広くドーピングと呼びます1)。ドーピングは競技の公正性に対する脅威であるだけでなく、アスリートにとって重大な不正行為であり、違反した場合大きな制裁が課され、選手生命にもかかわります。一方、医学的にはアスリートに深刻な健康障害をもたらします。
アンチ・ドーピング
ドーピングは古代ギリシャの時代から興奮剤を用いて行われてきたと考えられています。1865年にオランダの水泳競技大会で薬物を用いたドーピング事例が報告されています。また、1886年に自転車レースでの興奮剤使用で死亡者がでたことが報告されています。
オリンピックも例外ではなく、ついに1960年のローマ大会の自転車競技で興奮剤(覚せい剤)のアンフェタミンの過量使用で死亡者がでました。この事件をきっかけにして、次の1964年の東京大会でのメディカル関係の委員会の議題としてアンチ・ドーピングが取り上げられました。当時、各種の競技連盟はドーピングを禁止していましたが、薬物の検査方法が確立しておらず、実行力はありませんでした。1968年のグルノーブル冬季大会、メキシコ夏季大会からドーピング検査が実施されました。しかし、ドーピング取り締まりの共通ルールはなく、各競技機関が個々に行っていました。
1988年のソウル大会では、筋肉増強剤の検出によるベン・ジョンソン選手の陸上100m優勝取消がありました。1999年、ドーピングを防止するため、世界アンチドーピング機関(World Anti-Doping Agency: WADA)が設立され、競技種目、国や地域を越えたドーピング取り締まりが始まりました。2000年のシドニー大会から血液検査も実施されました。我が国では2001年に日本アンチドーピング機構(JADA)が設立されました2)。
ドーピング検査の一環として、アスリートに対する競技会直後や随時(抜き打ち)の検査が行われています。ドーピングの対象者は通常、アスリートですが、競馬などでは動物(競走馬)がドーピング検査の対象になります。このように、近年のオリンピックはドーピングとの戦いでもあります。それでも、ロシアによる国家ぐるみの隠蔽工作による2016年リオデジャネイロ大会への参加拒否など、記憶に新しいところです。
検体採取の手順は、検体の取り違いや不正な検体採取などが起こらないよう厳密に決められています。例えば、尿検体の採取は同性のドーピング検査員(Doping control officer: DCP)の監視下で採尿し、A、B 2つの検体に分けられて封印されます。A検体は直ちに分析にまわされ、B検体は保存されます。A検体が陽性の場合、B検体で確認検査が行われます。B検体も陽性の場合、ドーピングと認定され、後日聴聞会が行われます。
我が国では薬物検査はWADA認定ラボ(株式会社LSIメディエンス)で分析されます。薬物の分析方法は、それぞれの薬物に応じて、最適な方法がとられます。例えば、利尿薬のフロセミドなら、液体クロマトグラフィータンデム質量分析法(LC/MS/MS法)、遊離型塩基性物質(興奮剤など)のアンフェタミンではガスクロマトグラフィー窒素リン検出・質量分析法(GC/NP/MS法)、成長ホルモンrhGHでは酵素免疫法(EIA)、などです3)。
禁止物質
禁止物質(薬物)は分析方法の改良に伴って新たに分析可能な薬物が増えることから、毎年見直されています(禁止表国際標準)4)。禁止物質はS0からS10の10カテゴリーあります。
競技会以外でも禁止されている物質6種類:
S0. 無承認物質(臨床開発中の薬物、デザイナードラッグ、など)
S1. タンパク同化薬(アナボリックステロイド:筋肉増強作用)
S2. ペプチドホルモン・成長因子・関連物質および模倣物質(エリスロポイエチン:造血作用、など)
S3 . β2作用薬(気管支拡張薬:交感神経刺激作用)
S4. ホルモン調節薬および代謝調節薬(アロマターゼ阻害薬:抗エストロゲン作用、インスリン:タンパク合成促進、など)
S5. 利尿薬および隠蔽薬など(不正手段による減量、他の薬物使用の隠蔽)
競技会時検査で禁止されている物質4種類:
S6. 興奮薬(覚せい剤、コカイン、など。エフェドリンは尿中10μg/mLを越える場合)
S7. 麻薬(鎮静・鎮痛作用、陶酔感、多幸感)
S8. カンナイビノイド(大麻:多幸感、高揚感)
S9. 糖質コルチコイド(エネルギー代謝活性化、陶酔感)
禁止物質の深刻な健康障害としては、例えば、興奮薬の使用により交感神経が過度に刺激されて心拍数が上がるため、心臓に負担がかかり心臓性突然死が引き起こされます。タンパク同化薬は長期使用により高血圧、高脂血症、糖尿病の原因となり、女性の男性化、男性の女性化も引き起こします。なお、特定競技において禁止される物質のカテゴリー P1 として、β遮断薬(高血圧や頻拍の治療薬)があります。心拍数の低下をもたらす効果の高い薬物は、高揚した気持ちを静める効果が高く、手足の震えや骨格の動揺を抑えることができるため、アーチェリーや射撃など8つの競技では禁止物質です。また、アルコール(エタノール)はいくつかの競技連盟が独自に規制しています。
最後に
これらの禁止物質(薬物)は医師から治療のために処方される医薬品(喘息治療のためのβ2作動薬や糖質ステロイド、など)や一般のドラッグストアで販売される市販薬に含まれる成分(咳止めのエフェドリン、など)もあり、善意のアスリートが不注意で禁止薬物を摂取しないよう日頃から薬剤やサプリメントの摂取について教育、管理することが求められています。
参考:
1.ドーピングとは. 公益財団法人 日本アンチ・ドーピング機構: https://www.playtruejapan.org/about/
2.アンチ・ドーピングの歴史. 公益財団法人 日本アンチ・ドーピング機構:https://www.playtruejapan.org/code/history.html
3.主な分析対象物質と分析方法/導入分析機器. 株式会社LSIメディエンス:https://www.medience.co.jp/doping/04-1.html
4.禁止表国際標準. 世界アンチドーピング規程:https://www.playtruejapan.org/upload_files/tpl_2019.pdf
上村 公一
最新記事 by 上村 公一 (全て見る)
- カルシウム(Ca)が関与する腎障害 - 2024年10月28日
- シスプラチン 抗癌剤としての白金製剤 - 2024年9月23日
- 酸化ストレスと動脈硬化 - 2024年8月26日