ここまで「ウラン」「マグネシウム」と、金偏の漢字について詳しく紹介してきた。
今回は、金偏ではない元素の漢字を紹介し、その歴史と現状について説明をしたい。
フッ素(F)は、英語(IUPAC名)がFluorine(フローリン)である。中国では「氟」と書くが、日本ではこの元素に漢字を見たことがないという人が多い。学生だけでなく、年配の大学の教員にもそう述べる人がいた。
この「フッ素」というカタカナと漢字の交ぜ書きは、人々の意識にさまざまな影響を与えてしまっている。学生たちに、この「フッ」とは何だと思うかと尋ねてみると、次のような答えが返ってくる。もちろん、その表記の由来なんて考えもしなかったという人がいる一方で、様々な意識と想像が浮かび上がってきた。現代の日本人の発想を示すものなので、まとめて示してみよう。
本当は「弗」と書くと指摘する人は、数百名のうちで数名しかいなかった。これは、ほぼ正しい。しかし、守る意味があるとか、弗騰するからと言う。そういう意味はないし、後者は「沸騰」と書くべきところだ。「弗」は「~でない」という意味だ、そこから毒性が強いことを指すというのは、漢文の知識が活かされた独特な意識であろう。
同じく否定を表す「不」を想起し、英語の頭文字だと述べた解答は、音訳という方法を意識していそうだ。
漢字は「仏」であり、汚れがない状態を仏に喩えた、あるいは仏のように恩恵をもたらすものだ、フランスで見つかった貴く、入手しにくいものだと言うのは、フランスのことを「仏」(ふつ)と略すという知識に基づく答えだ。旧字体は「佛」なので、確かに「弗」を含んでもいる。
漢字では「沸素」と書くという。これも全くの間違いとは言えない(理由は後述する)。しかし、沸騰する、沸き出しそう、上に昇る感じというのは、字面や発音から意味を連想してしまったものだ。煮沸して殺菌する、抗菌効果がある、歯に良いという意識は、歯磨きに入っているという表示や宣伝による、ある種の効果といえるだろう。虫歯対策として日本でも水道水にフッ素を含ませようという動きがあり、それに対して歯科医らの反対運動まで起こったニュースがあったことまで一部で知られている。「沸石」(沸騰する鉱物の意からの命名)と同じ成分が含まれるのでは、と推測する人も現れた。
他には、「附」のつくりにウかんむりをかぶせた字を書いて、歯についてコーティングする、付着するという意識を述べる人もいた。
いや、「腐素」で「けずるから」というのは、腐食、腐敗のイメージだろう。「音的にマズそう」とか、なぜか発音から毒を想起する人もいたが、これと関連するのかもしれない。
実は「吹素」であって「吹いたら飛んでしまう軽い」というのは、「吹く」のほかに、後述する「フッと吹く」ということにつながっていそうだ。
「振っ」と書き、振動しやすいこと、さらに「フッ軽」の一部で「フットワーク」だったのでは、という推理まで出てきた。このようにこのカタカナはなかなか罪深い。発見した人の名前の一部だろうというのは、「摂氏」(セッ氏)からの類推だろう。
このように本来が漢字はないと思ったという人はそこそこいた。「ふっ素」で「ふわふわしてる」「ふわっとしたやつ」というひらがな派は、稀だった。
カタカナが多いのは、教科書のほか、毎日見る歯磨きなどでそう表記されているのがすり込まれた結果だろう。「歯磨き粉はスースーするのでフッというカタカナが似合う」という雰囲気重視は稀で、「フッと出て消える」「息でフッとすれば消えてしまいそう」「フッと消える」「フッときれいに仕上がる」というオノマトペ(擬音・擬態語)に由来するとの意識が続出する。これらの答えはとくに女子学生に多い。やはり虫歯菌を払(ふっ)拭する(払う)、汚れを払う、ぬぐうであり、先の「払素」だという意識とつながっている。「フ」に軽いイメージをもつという人は、音自体に加えて「浮」の音読みのイメージも重なっているのかもしれない。
通行の表記と日常生活とが結びついて、漠然としたイメージができあがり、誤解が生じる経過がうかがえる。
普段ほとんどカタカナしか見かけず、漢字表記をまず知らないせいか、音訳と推測する人は稀であることがよく分かる。
フッ素は、フローリンへの音訳を短くするために頭文字を取ってきた「弗素」が元だった。小さい「ツ」に当たる発音は英語にはない。「弗」(フツ)という漢字を当て、この字が日本で音読みでフツと読むために、素を付けたらフッソとなった。フ素では発音もしにくく、聞き取りづらい。
中国で「弗」は、北京で「fu(第2声 上がる音)」でフーのように読み、現在では標準語の発音として位置付けられている。南方では「fat」(ファット)のように読むため、この漢字を当てて末尾の子音「t」まで利用することで、英語の「flu」という発音に少しでも近づけようと考えたという可能性はなくもない。ただ単なる「f」音の音訳によく使われる字であった。
さて、日本での歴史を見ていこう。
江戸時代に、オランダから最新のヨーロッパのさまざまな科学が輸入され始める。鎖国とされる体制の中で、蘭学者たちがそのオランダ語の原本を日本語に翻訳しようと努めた。
江戸時代、宇田川榕庵の『植学啓原』巻3(1834序文 版本)では、フッ素に、
弗律阿里
という音訳を用いた。この4字に、「フリユオリ」とルビが振られている。
ちなみに先の温度の「摂氏」は、セルシウスという人名に中国で「摂爾修(斯)」と漢字を発音から当てたことによるとされるが、これも『植学啓原』巻3で、「摂爾須斯」「摂氏」と当て字をしたり略したりされていた。
その結果として、最近は「セ氏」という表現も増えてきたが、いまだに「セッ氏」という漢字「摂氏」の名残の表記も見られる。「ッ」は漢字による音訳表現の名残だが、「列氏」の場合はすでに「レッ氏」「レ氏」ともにほとんど見ない。
同じく『舎密(セイミ)開宗』(1837年序 版本。なお、早大には自筆本も一部分所蔵されている)巻8では、
弗律阿里、弗律阿里捏
という音訳がある。ともにフリュオリネと読み仮名が付けられている。
当時の中国語の発音を意識したいわゆる「唐話」式の漢字の選び方である。蘭学者は漢文の素養があり、漢籍によく出てくるこの字は書きやすいうえに、犬(いぬ)、食(たべる)のような具体的な意味も持たないので、当て字として使いやすかった。
上野彦馬『舎密局必携』(1862年刊 開成学校)巻1・3には、
弗律阿●(にんべんに留)母
があり(振り仮名はフリュオリウム・フリュオリユム。この本では、ユはュと区別が難しい箇所が多い)、そして「符号」として、
弗
も示している。
この「●(にんべんに留)」という字は、中国で仏典に現れた字で、鎌倉時代の『類聚名義抄』に異体字でリュウという音読みだけを示して収められたくらいで、字書にほとんど収められない僻字(へきじ)だった。
それを蘭学者が何かで見つけて、音訳であることを示しつつ、オランダ語などの元素名の語末の要素を「叟」や「母」などと同様に人間に関する字で表そうとしたものかと思われる。中国で生まれたが日本に残った字(佚存文字)であろうか。この字を含む元素名の日本人によるこうした音訳は、中国にも近代に一時期、日本から伝播していた。
明治時代になると、アメリカの貨幣の単位ドルに対して、この「弗」という字が、今度は「$」マークに似ていると見立て、当てて用いる人も現れた。これは発音ではなく、字形の類似による当て字だった。ローマ字の「S」の部分は毛筆では書きにくく、漢字の筆法に変えるために選ばれた字だ。「弗」が漢文などで使われることに慣れていた人がまだ比較的多く、また西洋伝来の簿記においてさえ、アラビア数字が避けられて漢数字で書かれた時代らしいことであった。
その後、土岐頼徳訳『化学闡要』巻1(1872年刊)では、「フリユオリン」が草冠を付けた字で、
茀律阿林
と音訳されたが、やはり平易な「弗」が好まれ、市川盛三郎『官版 理化日記』(1872 大阪開成学校)では、ついに、
弗素
が巻3に現れた。すでにあった熟語の「砒素」を応用し、「摂素」(Se)「的素」(Te)ようなものとともに市川が新たに作ったとされる。この本には、「弗化珪素」なども見られる。なお、数々の造字を『中等化学書』(1883年刊)で行った磯野も、この元素は「弗素」を用いていた。和田維四郎『金石学』(1876年成立、1878年刊行)でも、1字の「弗」や「燐」「砒」「珪」「硼」などが用いられている。
主要文献
あらかわそおべえ『角川外来語辞典』第二版 1967 1977
斎藤 静『日本語に及ぼしたオランダ語の影響』 篠崎書林 1967
坂出祥伸「清末民国化学史の一側面―元素漢訳名の定着過程」『東洋の科学と技術藪内清先生頌寿記念論文集』(藪内清先生頌寿記念論文集出版委員会編)pp.298-324 同朋舎出版
島尾永康「Lavoisier化学命名法の日本における確立」『科学史研究』Ⅱ10(100) 1971
笹原宏之『日本の漢字』 岩波書店 2006
成 明珍『日中韓三国の専門用語における語彙・文字に関する研究 -医学・化学分野の漢字・漢語を中心に-』 早稲田大学博士学位論文 2015
菅原国香・板倉聖宣「幕末・明治初期における日本語の元素名」『科学史研究』Ⅱ28,29 1989,1990
菅原国香・板倉聖宣「東京化学会における元素名の統一過程」『科学史研究』Ⅱ29 1990
吉野政治『日本鉱物文化語彙攷』 2018 和泉書院
張 澔「中文鹵素名詞,1822-1945 」『成大歴史学報』48 2015 pp.79-120
笹原 宏之
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