レントゲニウム(Rg)とコペルニシウム(Cn)-記念すべきタイミングで命名された二つの元素

レントゲニウム(roentgenium)とコペルニシウム(copernicium)は,それぞれ原子番号111,112の元素で,いずれも放射性です。今回は,元素名のもとになったW.レントゲン(1845~1923)とN.コペルニクス(1473~1543)と共にご紹介します。

コールド・フュージョンの成果

超重元素の合成方法は,アクチノイド元素の原子を標的として軽い元素のイオンビームを照射するホット・フュージョン(熱い核融合反応)と,金属原子に別の金属原子のイオンビームを衝突させるコールド・フュージョン(冷たい核融合反応)に大別されます。ここでの「ホット」と「コールド」は,標的の原子とイオンから生じる融合核の励起エネルギーの大きさの違いを表していて,その値はホット・フュージョンで40~50MeV(メガ電子ボルト),コールド・フュージョンでは10~20MeVです。(⇒ダームスタチウムについてはココをクリック)


〔図1〕アメリシウム(95Am)以降の合成年(横軸:原子番号,縦軸:西暦年)


〔図2〕標的とイオンの質量数(横軸:原子番号,縦軸:質量数)

図1は,アメリシウム(95Am)からオガネソン(118Og)までの元素が合成された西暦年を示したもので,図2は,それらの合成の核融合反応について,標的の核種とそれに衝突させるイオンの質量数を示したものです。ドイツと日本で成し遂げられたボーリウム(107Bh)からニホニウム(113Nh)までの元素合成では,そのほかの例よりも軽い標的と重いイオンビームが使われたことが分かります。

 

X線発見100年を前に合成された111番元素

111番元素ウンウンウニウム(unununium)は,1994年12月にドイツ・ダルムシュタット市の重イオン研究所(GSI)でP.アルムブルスター,S.ホフマンらにより合成されました。彼らは,線形加速器で加速した64Niのイオンを209Biの標的に衝突させ,3個の新たな原子(質量数272)を確認しました。GSIでは2000年に更に3個,日本の理化学研究所でも14個が合成されました。

209Bi+64Ni→272Uuu+

得られた原子は,次の一連のα崩壊によって確認されました。(括弧内は半減期)

272Uuu(3.8㍉秒)→268Mt(21㍉秒)→264Bh(1.3秒)
260Db(1.5秒)→256Lr(27秒)→252Md(2.4分)

 元素名は,ドイツの物理学者レントゲンが1895年11月にX線を発見してから100年になることから提案され,2004年に国際純正・応用化学連合(IUPAC)によりレントゲニウム(Rg)に決定されました。レントゲニウムは周期表の11族に位置し,金・銀・銅と同族であることから,固体の金属であると推測されていますが,その密度,融点,沸点などは不明です。レントゲニウムの同位体で,現在知られている最も長寿命のものは281Rgで,その半減期は17秒です。


X線発見100年・レントゲン生誕150年の記念切手(ドイツ,1995年)
出典:Deutsche Bundespost, Landgericht Münchenによる”Stamp 150 birthday of Wilhelm Röntgen”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

 

レントゲンとX線

19世紀末には真空放電や陰極線の研究が進められていました。当時は,電子の流れである陰極線について,それが金属を透過することから,粒子の流れではなく電磁波の一種と考えられていました。W.レントゲンもこうした現象に興味をもち,1895年秋から放電管の実験を始めました。

 

 

 

クルックス管
出典:Zátonyi Sándor, (ifj.)による”Cathode rays in magnetic field. (Crookes tube; B = 0)”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

1895年11月8日,クルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは,管の近くにあった蛍光物質を塗った紙に表れたほのかな線に気付きました。しかしクルックス管は黒い紙で覆われ,そこから漏れた光はありませんでした。レントゲンは,紙を管から2mほど離しても発光が起きることから,何らかの放射線の存在を確信したのです。
レントゲンは,種々の実験を行い,数学で未知数を表すXを用いて仮称を「X線」として,その性質を次のようにまとめました。

・陰極線が管壁のガラスに当たり最も強く発光している所から主に出ている。
・蛍光物質の光の強さは,X線の発生点から蛍光物質までの距離の二乗に反比例する。
・1000㌻程度の本をも透過するが,厚さ1.5㎜の鉛板でほとんど遮断される。
・同じ厚みの板で較べると密度が大きいものほどよく遮断する。
・磁場によって進路を曲げられず,陰極線とは異なる。

 

 

 

 

X線が発見された実験室
出典:”Room where Röntgen found x-rays”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

また,写真乾板を用いると撮影ができることも分かりました。1895年の末には論文『新種の放射線について』(Über eine neue Art von Strahlen)をヴュルツブルク物理医学会に提出し,翌年1月には,妻の薬指の指輪や金属ケース入りの方位磁針など,数枚のX線写真が論文に付されました。

 

コペルニクスの誕生日に決定された112番元素の名称

112番元素ウンウンビウム(ununbium)は,1996年2月,GSIで70Znのイオンを208Pbに衝突させ,1個の同位体(質量数277)が確認されました。その後,GSIで2002年に更に1個,2007年に理化学研究所で2個が合成されました。

208Pb+70Zn→277Uub+

 GSIは,世界観を変えた科学者コペルニクスに敬意を表して元素名コペルニシウムを提案し,それはコペルニクスの誕生日2月19日に合わせて2010年2月19日にIUPACから発表されました。
コペルニシウムは周期表の12族で水銀の下に位置し,水銀に似て蒸発しやすい性質をもつと考えられています。同位体のうちで最も長寿命なものは285Cnで,その半減期は29秒ですが,更に長命な同位体の存在も推測されています。

 

コペルニクスと地動説

ポーランドのコペルニクスは,地動説を唱えたことや「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉で多くの人に知られています。コペルニクスは,聖職者のほかに,行政者であり法学者,占星術師,医師でもありました。彼は仕事の余暇に天体観測を行って1508年から1510年頃に地動説の着想を得たとされます。

 

 

コペルニクス生誕500年を記念するインドの切手
(1973年発行,1㍓)
出典:Post of Indiaによる”Stamp of India – 1973 – Colnect 372304 – Nicolaus Copernicus 1473-1543”(WIKIMEDIA COMMONSより)

太陽は毎日正午にほぼ南中します。太陽南中時には星は見えないので星の位置を毎日確かめることはできません。そこで,観察する星を決めてそれを毎晩同時刻に見ると,1日に約1°ずつ東から西へ移っていくように見えます。次に,ある星を基準にして太陽を毎日見ると,太陽は1年間で天球上を西から東に周回するように見えます。このように,多くの天体は天球上を西から東に動き,これが年周運動の「順行」です。「逆行」は東から西へ動くことです。
天動説では地球を天体の運行の中心と考えられました。ところが,惑星は天球上を順行したり逆行したりします。地球を中心とした円軌道上に惑星を配置した天動説のモデルでは逆行を説明することができず,逆行を説明するために周転円説(epicycle theory)が考え出されました。

 

 

 

 

周転円と誘導円
出典:MLWattsによる”Epicycle and deferent”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

周転円説では,地球を中心に置き,地球を中心とする円(誘導円または従円と呼ばれる)の円周上の点を中心とするもう一つの円(周転円と呼ばれる)を考え,惑星は周転円の円周上を運行していると考えます。図で,地球(大きな円の中心にで示されている)から惑星の動き()を見ると,の順行を経て,で逆行になり,で再び順行になります。
これに対してコペルニクスは,太陽を天球の中心に置いたモデルを思い付きました。惑星の逆行は地球と惑星とで公転の速度が異なることによって生じる見かけの運動であると考えたのです。英語では,天動説(geocentric theory)はプトレマイオスの説(Ptolemaic theory)とも言われ,地動説(heliocentric theory)はコペルニクスの説(Copernican theory)とも言われます。
地動説が初めて公表されたのは,1510年,同人誌『コメンタリオルス』(Comentariolus)においてでしたが,同誌は友人の数学者たち数人に送られた程度でした。しかしその考えは,友人たちを通じて広がり,やがて教皇クレメンスⅦ世にも伝わりました。
1539年,コペルニクスから地動説を聞いたヴィッテンベルク大学の数学者G.レティクスは,感銘を受けて弟子入りし,コペルニクスに出版を勧めました。1539年にレティクスは,自らの天文学の師であったJ.シェーナーにコペルニクスの理論の要約を記した書簡を送り,その手紙の写しは出版業者に持ち込まれました。その後,コペルニクスとレティクスの最終的な点検を経て,1542年にコペルニクスの主著となる『天球の回転について』(De revolutionibus orbium coelestium)の草稿が完成したのです。

 

参考文献
John Corish and and G.M.Rosenblatt,Name and symbol of the element with atomic number 111(IUPAC Recommendations 2004),Pure Appl.Chem.,76, 2101-2103(2004)
Kazuyuki Tatsumi and John Corish,Name and symbol of the element with atomic number 112(IUPAC Recommendations 2010),Pure Appl.Chem.,82, 753-755(2010)
「元素創造 93~118番元素をつくった科学者たち」K.チャップマン著,渡辺 正訳(白揚社,2021年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。