マイトネリウム(Mt)-女性科学者の名前をもつ唯一の元素

新元素の名称についてIUPAC(国際純正・応用化学連合)の2002年勧告では,伝統に合致するよう,神話上の概念や登場人物(天体を含む),鉱物及び類似物質,場所や地域,元素の性質,科学者をもとにすることとされました。
マイトネリウム(109Mt)は女性科学者の名前が付けられた唯一の元素です。というのも,キュリウム(96Cm)は夫妻に捧げられた名前であり,イリジウム(77Ir)などは神話の女神に基づく名前です。今回はドイツの化学者L.マイトナー(1878~1968)と共にご紹介します。

ドイツで合成された109番元素

1950年代より前,新発見の元素(単体)は,手に取り肉眼で見ることができるものであり,原子番号が二桁までのほとんどの元素は,日常の道具など具体的な物です。しかし,超重元素はごく微量しか得られず,しかも半減期が分や秒のオーダーまたはそれより短いものが多く,時と共に壊変する物質です。

新元素が公式に確認され,その名称が決まるまでには,これまでにも長い期間を要しました。104番元素(ラザホージウム,Rf)では,米ソ両国の科学者が長期にわたって命名権を争いました。(⇒ラザホージウムについてはココをクリック)
IUPACは,正式な名称が未定の元素に対する系統的な命名規則を1978年に勧告しました。この規則はその後も有効で,2016年に118番元素までが命名されて以降は,119番以降の元素に適用されています。元素の暫定的な名称は,

0=ニル(nil) 1=ウン(un) 2=ビ(bi) 3=トリ(tri)
4=クアド(quad) 5=ペント(pent) 6=ヘキス(hex)
7=セプト(sept) 8=オクト(oct) 9=エン(ennまたはen)

を,金属元素の語尾”-ium”の前に三つ並べて作られます。109番元素の場合はウンニルエンニウム(unnilennium,元素記号はUne)になります。

ドイツではダルムシュタットを含む六大学が共同出資して1969年に重イオン研究所(GSI)が創設されました。109番元素は,1982年にP.アルムブルスターとG.ミュンツェンベルクにより,GSIの重イオン線形加速器(UNILAC)を用いて,ビスマスの同位体(209Bi)に鉄のイオンを衝突させてつくられました。標的の鉄には自然界に約0.28%しか存在しない同位体(58Fe)が使われました。

209Bi+58Fe→266Mt+

得られた新元素は1個の266Mtで,その半減期は1.7㍉秒でした。マイトネリウムには安定同位体が知られておらず,半減期が最も長い核種(278Mt)でも4.4秒です。物理的性質と化学的性質は共に不明ですが,周期表で同族(9族)のイリジウムに類似していると推測されています。

 

 

重イオン研究所の加速器(長さは約120㍍)
出典:Alexander Blecher, blecher.infoによる”Visit of the GSI Helmholtz Centre for Heavy Ion Research, Darmstadt, Germany.”ライセンスはCC BY-SA 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

 

マイトナーとドイツ

109番元素の名前のもとになったL.マイトナーとはどんな人だったでしょう。
マイトナーは,オーストリア・ハンガリー帝国の繁栄の黄金期にウィーンに生まれて寛容な両親のもとで育てられ,自然科学に興味を抱くようになりました。しかし,当時の女性は高等教育を受けることができず,彼女は大学卒業の資格が無くてもなれたフランス語教師になりました。
その後,女性も大学入学資格を取得すれば大学に入れるようになり,マイトナーは23歳でウィーン大学に入りました。マイトナーが学びたい物理学と数学は哲学科で学ぶ科目でしたので,文学部を選びました。彼女は,とりわけ理論物理学者L.ボルツマンの講義に魅了されました。

マイトナーは,1906年にウィーン大学で女性として四人目の博士となり,その後も理論物理学研究所で研究を続けて,1907年に最初の論文『α線とβ線の吸収について』を発表しました。
マイトナーは放射線研究に本格的に進むことを決め,既に業績を挙げていたソルボンヌのM.キュリーに助手としての雇用を願い出ましたが,空きが無く,叶いませんでした。そこで,当時の科学の中心地であったベルリンに行くことにしました。当初彼女はほんの何学期かの滞在のつもりでしたが,ドイツでの研究は,1938年にオーストリアがナチスに併合されて彼女も迫害を受け,亡命するまでの31年間に及びました。

20世紀になったばかりのドイツでは,女性の学問進出について,他の欧州諸国と較べて遅れていました。L.シービンガーの著書『科学史から消された女性たち』によれば,同書執筆時までのベルリン科学アカデミーの会員総数2900人(1700年の創設以来)のうち,女性はわずか14人(そのうち正会員は4人)でした。マイトナーは,名誉会員の資格を与えられた貴族女性を除けば,純粋に科学的業績による最初の女性会員として1949年に選ばれましたが,それでも彼女は通信会員でした。(初の女性正会員は1964年,古代史学者L.ヴェルスコプフでした)

1907年秋,マイトナーはドイツの化学者O.ハーンと出会いました。しかしハーンの上司である有機化学者E.フィッシャーは,女子学生を研究所にも講義にも受け入れず,所内に入ることができた女性は清掃係だけでした。地下の木工作業場がマイトナーとハーンの居室に充てられ,最初の1年間は婦人用化粧室さえ無かったので,マイトナーは通りに出て近くのレストランまで歩いて行かねばなりませんでした。

分析的で系統立った考え方をする物理学者のマイトナーと,直観的で実験にけている化学者のハーンとは,互いの専門分野と研究手法について補完する間柄でした。共同研究を始めた1908年からの1年間で彼らは三つの論文を発表し,マイトナーは第一次大戦までのベルリンでの研究生活を〝最も屈託のない年月〟だったとしています。
しかし第一次大戦が始まると,ハーンは直ちに入隊することとなり,しばらくしてマイトナーもオーストリア軍のX線技師兼看護師として戦地に派遣されました。

 

液滴モデルと原子核反応

1934年にイタリアのE.フェルミによって原子核に中性子を当てると原子核変換が起きる可能性が示され,多くの科学者が競って実験を始めました。ウランに中性子を当てることでウランより重い新たな人工元素の合成が期待されました。

ウランへの中性子照射によって得られた放射性物質について,1938年12月,マイトナーはハーンから,それがバリウム(56Ba)ではないかとの示唆を受けました。ウラン(92U)からバリウムのような小さな原子ができることを当時の科学者は考えていませんでした。
マイトナーはこの実験結果を受け入れ,中性子による原子核の衝撃で,原子核が液滴(liquid drop)のように二つに分かれたと考えたのです。原子核反応の新しい形式である「核分裂」発見の瞬間でした。また,生成物の質量の減少量から計算すると,相当な量のエネルギーが発生していることも分かりました。

マイトナーは,重い原子核は〝粘っこい液滴〟のように振る舞うと考え,1939年,ハーン,R.フリッシュと共に核分裂反応を初めて液滴モデルを用いて説明しました。

 

 

 

 

 

 

液滴モデルでの核の分裂
出典:Hullernucによる”Stages of nuclear fission (liquid drop model)”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

液滴モデルは原子核の性質を示すモデルの一つで,原子核を液体のしずくとして説明するものです。その考え方は,ロシア生まれでアメリカの理論物理学者G.ガモフにより進展しました。ガモフは原子核のα崩壊に初めて量子理論を応用した人で,元素の起源についても研究しました。
次いで1936年,デンマークのN.ボーアは,1934年にイタリアの物理学者E.フェルミによって見出された「複合核」の反応を液滴モデルを用いて説明しました。原子核反応には,入射する粒子と標的の核とが1回だけ衝突して進む反応,2回以上衝突し多段階で進む反応のほかに,入射する粒子が標的の核と一体化してできた複合核が崩壊して粒子を放出する反応があります。

原子核を構成する核子(陽子と中性子)の間には強い核力が作用していますが,その到達距離は短く,直接隣り合う核子間にしか相互作用しません。隣り合う陽子どうしの電気的斥力(クーロン力)は,核力と比べれば弱いものの,到達距離が長いために核内の他の全ての陽子の影響を受けます。そのため,原子核は大きくなるほど(陽子が多くなるほど)不安定で,その結果として92個以上の陽子をもつ元素には安定同位体が存在しないと考えられています。

 

ノーベル賞を得たハーン,元素名になったマイトナー

マイトナーは,核分裂を連続的に行わせて巨大なエネルギーを放出させることについて,「戦争中に成功したのは不幸な偶然だった」としています。この新しいエネルギー源が原子爆弾に利用されようとしているのを知り,彼女は,「原爆の製造が失敗に終わるよう願っているが,やはり成功するのではないかとたびたび不安になる」と友人に語り,このエネルギー源はひとえに平和的な目的に使われるべきだとも語りました。

 

実験室のマイトナー(右),ハーンと共に
出典:”Hahn and Meitner in 1912. Or Hahn and Meitner in Emil Fischer’s Chemistry Institute in Berlin, 1909.”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

マイトナーは何度かノーベル賞の候補者になりましたが,核分裂反応の業績に関しては1944年にハーンだけが化学賞を受けました。
彼女が没後の1997年,109番元素の名前がマイトネリウム(meitnerium)に決まりました。109番元素には当初,ハーンの名前からハーニウム(hahnium)が提案されました。しかし,ハーニウムは過去に105番元素に対して提案され,議論の末に105番元素の名前はドブニウム(dubnium,元素記号はDb)に決まったという経緯がありました。一度提案されて不採用になった元素名は他の元素には採用しないことになっているため,ハーニウムは109番元素の名前にもなりませんでした。マイトナーとハーンは,元素名とノーベル賞の栄誉を分かち合ったと言えるかもしれません。(⇒ドブニウムについてはココをクリック)

 

参考文献
J. Chatt, Recommendations for the Naming of Elements of Atomic Numbers Greater than 100, Pure & Appl.Chem., 51,381-384(1979)
W.H.Koppenol,Naming of New Elements(IUPAC Recommendations 2002),Pure & Appl.Chem.,74,787-791(2002)
Nomenclature of Inorganic Chemistry IUPAC Recommendations 2005, Neil G.Connelly et al., RSC Publishing(2005)
「核分裂を発見した人 リーゼ・マイトナーの生涯」C.ケルナー著,平野卿子訳(晶文社,1990年)
「科学史から消された女性たち」L.シービンガー著,小川眞理子・藤岡伸子・家田貴子訳(工作舎,1992年)
「リーゼ・マイトナー 嵐の時代を生き抜いた女性科学者」R.サイム著,米澤富美子監修,鈴木淑美訳(シュプリンガー・フェアラーク東京,2004年)
「元素118の新知識」桜井 弘編(講談社,2017年)
「元素の名前辞典」江頭和宏著(九州大学出版会,2017年)
「世界と科学を変えた52人の女性たち」R.スワビー著,堀越英美訳(青土社,2018年)
「元素創造 93~118番元素をつくった科学者たち」K.チャップマン著,渡辺 正訳(白揚社,2021年)

 

改訂:2024年9月6日
最後の段落について、記載内容の詳細を追記するために修正をいたしました。

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。