アルミニウム~精錬法を発明した二人の偶然

 

軽金属時代を築いたアルミニウム。現在の工業的製法は氷晶石(Na3AlF6)を加えた熔融酸化アルミニウムの電解によります。この方法(ホール・エルー法)は1886年に発明され、1㍀(約450㌘)の価格は18㌣(1950年)にまで下がりました。しかしそれ以前のアルミニウムは、1㍀が500㌦(1855年)もする高価な金属でした。

アルミニウムの単離と元素名

1807年、イギリスのH.デーヴィーは,明礬ミョウバン(硫酸カリウムアルミニウム)の中にある金属の単離を電気分解で試みましたが成功しませんでした。しかし彼はその金属を、明礬を表すラテン語alumenアルーメンからアルミウム・・・・・・(alumium)と名付けました。単離は1825年にデンマークの化学者H.エールステッドによって塩化アルミニウムのカリウムによる還元で成し遂げられました。また名称は、光をもつ物を意味するラテン語alumineアルーミネと調和するようにアルミナム・・・・・(aluminum)になりました。

1827年、ドイツのF.ヴェーラーはエールステッドの方法を追試して単離を確認し、次いでフランスのH.ドヴィルはボーキサイトから得た酸化アルミニウムをナトリウムで還元するよう改良し、工業生産が可能になりました。名称は元素名の語尾(-ium)に統一してアルミニウム(aluminium)と定められました。アメリカではaluminumが使われますが、一説には米アルコア社が市場に紹介するときにaluminiumの下線部の i を抜かし、それが定着したともされます。(他説あり)

貴重品だった初期のアルミニウム

しかし、当時のアルミニウムは金や銀と並ぶ高価な金属でした。ドヴィルはメダルにしてナポレオン三世に献上し、皇帝は上着のぼたん、皇太子の玩具、重要な賓客専用の食器を作らせたといいます。1855年のパリ万博には〝粘土から得た銀〟として出品されて注目され、アメリカのワシントン記念塔の冠部(高さ22.6cm、基部13.9cm、重さ2.85kg)にもなりました。

ワシントン記念塔

日本には早くもその翌年に地金が輸入されて軍装用金具や尾錠びじょうに使われ、以後も軍用の飯盒はんごうや水筒、兵器や火薬の原料になりました。陸軍は「礬素ばんそ」と呼びましたが、その後「軽銀けいぎん」という名前が考案され、昭和初期には「軽金属」という言い方も現れました。国内で製錬工業が確立したのは1934年のことです。

腕時計の尾錠(写真にはアルミニウム製以外も含まれます)

実用化されているホール・エルー法

ホール・エルー法は、ボーキサイトから酸化アルミニウムを効率良くつくること、高融点(2054℃)の酸化アルミニウムを低い温度で熔融すること、そして電力供給。これらの条件が揃うことで工業的製法として確立しました。順に見ていきましょう。

アルミニウムの原料はボーキサイト(bauxite)、酸化アルミニウムを約50%含む鉱物です。1821年に南仏プロヴァンスのレ・ボー(Les Baux)で発見した地質学者P.ベルティエが命名しました。ボーは山脈の古城の町、ローヌ川河口に近く、その名は土地の古語baou(岩だらけの尾根)に由来します。

ボーキサイトは、先ず水酸化ナトリウム水溶液に溶解してアルミン酸ナトリウム水溶液を得、赤い色の酸化鉄(Ⅲ)などが除かれます。次いで水酸化アルミニウムを沈澱させ、焼成して酸化アルミニウム(アルミナ)を得ます。この過程は、オーストリアのK.バイヤーが考案し、バイヤー法と呼ばれます。(父のF.バイヤーは薬品のバイエル社を1863年に創業した人です)

精製酸化アルミニウムに氷晶石を加えると融点は1000℃程度になります。これは凝固点降下という現象で、例えば塩水の融点は水よりも塩よりも低いのです。この熔融物を炭素陰極板で内張りした鋼製の槽に入れて電流を通じると、アルミニウムは槽の底にたまります。炭素陽極は懸垂されていて、生じた酸素との反応で二酸化炭素を発生しながら消耗します。アルミニウム1㌧あたり約1.3万㌗時もの電力が必要で、大電力を供給する発電機の技術と発電所の建設がそれを可能にしました。

ホールとエルー 二人の偶然

ホール・エルー法は、これを発見した二人の化学者からの名前です。では彼らの生涯をみてみましょう。

C.ホールはアメリカのオバーリン大学を卒業しました。彼に影響を与えた人物は、後に東京帝大でも教鞭を執ったF.ジュウェットです。ジュウェットは、かつてテルミット法でアルミニウムの単離に成功したヴェーラーの弟子です。ホールは学生の時にアルミニウムの製造は巨富を生むと予測したのでしょう。卒業後、自宅の実験室で最適条件を見出して特許を取得。1886年2月、彼は記念すべき最初のアルミニウムで服の釦を作って教授に贈り、工場を建てて生産を始めました。

一方のP.エルーはパリの鉱山学校で冶金学を学び、ドヴィルが書いたアルミニウム単離の記録を読んだことが人生を決めました。独仏戦争を避けて英国に疎開し、帰国後、ドヴィルのもとで研究を行いました。1886年に特許を取り、大規模生産に向けて課題を克服しました。

ところで、ホールとエルーは誕生日こそ違いますが1863年に生まれ、1886年に世界的な発明をして、1888年に工場を造り、1914年にこの世を去りました。同じ原理に基づく精錬法が二人の頭脳から独立に生まれる。
何という偶然でしょう!

 

参考文献■第4話に関連する内容の本の紹介
「アルミニウムのおはなし」小林藤次郎著(日本規格協会,1991年)
「元素大百科事典」渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)
「図説世界史を変えた50の鉱物」E.シャリーン著,上原ゆうこ訳(原書房,2013年)
「元素の名前辞典」江頭和宏著(九州大学出版会,2017年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。