鉛(Pb)-鉛中毒の歴史

 鉛は,古くから知られていた金属の中では柔軟で,密度が大きく,融点は低く,熱伝導性が低いことなどから,様々な用途に使われてきました。しかし,その便利さの一方で毒性も知られていました。
鉛の毒性の原因は酵素作用の阻害で,主に消化器や神経系に影響が現れます。とりわけ微量な摂取が長期間続くと,慢性中毒症状として,疲労や不眠などに始まり,その後貧血や神経炎などが起きます。今回は鉛の特徴の一面である毒性を中心にご紹介します。

古代ローマの生活と鉛

ローマで水道設備への鉛の使用が盛んになったのは帝政期になってからのようです。貯水槽から給水される水は小孔を開けた鉛板で濾過され,給水槽も鉛製でした。給水管は鉛管で歩道脇に配管され,鉛管の接続は,一方の端を次の管に差し込み,継ぎ目に融けた鉛を流し込んだので節状になっています。

世界遺産,ローマの水道橋(ポン・デュ・ガール,フランス)
出典:Benh LIEU SONGによる”Pont du Gard BLS”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

共和政末期から帝政初期にかけての建築家ウィトルウィウスは『建築について』(De Architectura,建築十書)で,鉛管からの水は陶管からの水に比べて有害性が大きいことを記し,その理由として,鉛からは鉛白えんぱく(塩基性炭酸鉛,2PbCO・Pb(OH))が生じることを挙げ,鉛を扱う職人の顔色が青白いことも記しています。
イタリア中南部のポンペイ(Pompeii)はBC6世紀にオスク人によって建設されたナポリ湾東岸の古代都市です。しかし,西暦79年のベスビオ山の噴火で壊滅し,18世紀半ば以降に発掘が本格化するまで,その存在さえ謎でした。
ポンペイでは,噴火後のごく短期間のうちに軽石と火山灰が市域全体に厚く降り積もり,家屋や整備された水道設備(貯水槽・給水槽・配水管,公共浴場,公共水道,噴水口など)が当時のまま埋もれました。発掘が進むと,かつての都市の姿がつぶさに分かるようになりました。

古代ローマでは,水道管のほかに,貨幣・容器・玩具・屋根材・塗料・化粧品・薬など,鉛の単体・合金・化合物が広範に使われていました。
一例を挙げると,当時は,ワインの保存料や甘味料として鉛が使われました。甘くなるのはワインの酸成分との反応で「鉛糖」とも呼ばれる酢酸鉛(Ⅱ)((CHCOO)Pb)を生成するからで,リンゴ酒やラム酒なども鉛を加えると甘口になりました。ワイン瓶に鉛の粒を入れる習慣は19世紀頃までは当然のことのように行われ,ワイン樽から鉛の粒が出てくることもあったといいます。
ワインは寒い時期には温めて飲まれ,製造過程が不衛生だったことから発酵前に煮沸消毒されていました。また,発酵前のブドウ(葡萄)の搾汁を煮詰めて作った「サパ」というシロップは,甘味料や料理のほかにオリーブなどの漬け込みにも使われました。こうしたときには,鉛で内張りした青銅製鍋が使われました。

 

美顔・美白の歴史と鉛の害

日本では,古くは顔に白粉おしろいを塗ることよりもほおに紅を塗る紅粧こうしょうがよく行われたとされます。例えば,正倉院御物の鳥毛立女とりげりつじょ屏風に描かれた女性は,口紅と共に,頬の紅が鮮やかです。

 

 

 

 

 

鳥毛立女屏風(東大寺正倉院所蔵,顔を拡大)
出典:”正倉院藏鳥毛立女屏風”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

平安時代に入ると,白粉を塗ることは,既婚女性のお歯黒(鉄漿とも)と同様に化粧法の一つになりました。お歯黒は,酢酸に鉄を溶かして歯に塗布してから五倍子粉ふしこ(タンニンを含む)を上塗りして黒く染めることで,その起源は不明ながら,黒は他の色に染まらないことが貞節の証とされました。

平安時代中期に編まれた辞書『和名類聚抄わみょうるいじゅうしょう』(倭名類聚鈔とも)には,日用品を記した調度部(巻十四)の容飾具の中に「粉」と「白粉」の二項があります。前者には「和名は之路岐毛能しろきもの」と記され,後者には「俗に云う波布邇はふに」と記されています。
平安時代に宮中で流行した球技の蹴鞠けまりで使われる鞠は,鹿革と馬皮を縫い合わせて作られましたが,表面をいぶしたくすべ鞠と白粉を塗った白鞠が使われたとされます。

 

 

 

 

 

 

 

浮世絵「東海道名勝風景」に描かれた京の蹴鞠
出典:National Diet Library Digital Collectionsによる”東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

白粉を塗る風習は武家社会に受け継がれ,男性の身だしなみにもなり,室町期半ばには白粉売りが現れて民間にも広まりました。公家たちは厚化粧でしたが,薄化粧の風習が遊里から興り,耳下や胸まで塗るようになりました。元禄時代の江戸の女性の多くは薄化粧ですが,井原西鶴の文学に登場する女性には厚化粧が多く見られます。この時期,江戸では白梅の如き淡い化粧,上方かみかたでは紅梅の如きあでやかな化粧が好まれたようです。

白粉として使われる白色顔料には,鉛白,白土,胡粉ごふん(貝殻粉),穀粉,天花粉てんかふん(天瓜粉とも,キカラスウリ(黄烏瓜)の根からとった白い粉),軽粉けいふん甘汞かんこう,塩化水銀(Ⅰ)HgCl)などがありました。これらのうちで鉛白と軽粉の有害性は早くから知られており,真珠を焼いたものや白墨粉などの代用品も試されましたが,品質は劣り,江戸期以降は鉛白がよく使われました。軽粉は透明感に優れ,鉛白は際立つ白さに加えてのり・・と伸びの良さが特徴で,共に代用品を凌駕していました。

 

 

 

 

 

 

 

喜多川歌麿の浮世絵
出典:Metropolitan Museum of Artによる”江戸の園花合 東屋の花”ライセンスはCC0 1.0(PD)(WIKIMEDIA COMMONSより)

鉛白も軽粉も中国から伝わりました。軽粉は古代中国で発明され,初めは主に薬用でした。日本では,鎌倉時代には皮膚病に外用され,梅毒が流行すると駆梅剤・堕胎剤として内服され,駆除剤や下剤としても用いられました。梅毒の最古の記録としては,1512(永正9)年,歌人の三条西実隆の歌日記『再昌草さいしょうそう』に「道堅法師、唐瘡からがさをわつらふよしもうしたりしに」とあり,医師の竹田秀慶の『月海録』に「永正九年壬申、人民多くそう有り(中略)これ唐瘡、琉球瘡と」とあります。
三重県の櫛田くしだ川上流の水銀鉱山の丹生にうに近い射和いざわ(松阪市射和町)では,「はらや」とも呼ばれた軽粉けいふんをつくる釜元が多く,伊勢白粉として京の貴族や上流階級の人々に愛用されました。軽粉は松阪商人が商品化し,伊勢参りの土産として販売され,全国を回る伊勢の御師おしが伊勢暦などと共に配ったことから全国に拡がりました。

一方, 鉛白は古くから世界中で使われ,中国では秦代の兵馬俑へいばようなどにも使用が見られます。正倉院の宝物に使われている鉛系白色顔料のX線回折で,鉛白のほかに塩化物系化合物(塩化物,塩化水酸化物,塩化酸化物など)も確認されました。胡粉は今では貝殻粉(主成分は炭酸カルシウム,CaCO)のことですが,当時は鉛系の白色顔料のことでした。
8世紀半ばの東大寺大仏殿天井彩色に関わる正倉院所蔵文書には,彩色材料として「唐胡粉」と「倭胡粉」が記されています。前者は鉛白,後者は塩化物系化合物と考えられ,鉛白の方が顔料として良質だったようです。『日本書紀』に,持統天皇が692(持統6)年に,僧侶の観成かんじょうからふとぎぬ十五匹、綿三十とん、布五十たんを受け,「其の造れる鉛粉えんふんめたまふ」とありますが,この「鉛粉」は鉛白とは限らないとする説もあります。

 

有鉛白粉の有害性の解明

江戸時代には,「伊勢白粉」,「御所白粉」などの軽粉と共に,「京白粉」,「生白粉」などの鉛白がありました。明治期になっても白粉は多くが鉛白で,女性は胸まで塗り,城中や宮中の上流階級,梨園りえんや花街では,授乳の際に鉛白をなめた乳幼児に貧血,消化不良や脳膜炎がみられました。
1887(明治20)年,外相であった井上 馨の家で催された天覧歌舞伎の折りに,女形の中村福助(成駒屋四代目)が倒れ,鉛白による慢性中毒と診断されました。鉛中毒は以前から人々に知られていましたが,ここへきてついに社会問題になりました。1900(明治33)年に『有害性着色料取締規則』(内務省令第17号)が出されましたが,無鉛白粉には良い代替品が無かったことから,附則第12条で適用が当分の間見送られました。
無鉛白粉の原料として亜鉛華(酸化亜鉛,ZnO)の製法特許をとったのは,1879(明治12)年,茂木春太・重次郎の兄弟で,1900年には伊東胡蝶園の無鉛白粉「御園白粉」が発売されました。

鉛は,吸入あるいは経口で人体に入り,体内では速やかに血液及び軟部組織に取り込まれた後,徐々に骨に沈着します。主に尿で排泄され,血液及び軟部組織での半減期は1か月前後ですが,骨にはそれより長く留まり,体内全体の半減期は約5年とされます。中毒症状は,鉛を含む粉塵を吸入しやすい製錬・鋳造,蓄電池製造,鉛管加工などの作業者に多く,貧血,腹痛,鉛縁なまりえん(歯茎にできる青黒い線条)などです。
乳幼児にみられる脳膜炎様病症の原因究明は,1923(大正12)年,小児科医学者の平井いく太郎により,京都帝国大学医学部小児科教室を挙げてなされ,母親が使用する有鉛白粉による鉛中毒であることが解明されました。平井は,同年の『児科雑誌・281号』に掲載された『所謂腦膜炎ノ豫防及治療ニ就テ』で,それまで脳膜炎と仮称されてきた小児の疾患が慢性鉛中毒症であることを確認した,と発表しました。これにより鉛白の使用が法律で禁止されました。

 

参考文献
「労働科学叢書92 労働と健康の歴史・第七巻 古典的金属中毒と粉塵の健康影響の歴史」三浦豊彦著(財団法人・労働科学研究所出版部,1992年)
「平井毓太郎伝」北村晋吾著(1997年)
「新編日本古典文学全集4 日本書紀③」小島憲之他校注訳(小学館,2006年)
19~20世紀にわが国で使用された含鉛おしろいに関する研究,吉永 淳,コスメトロジー研究報告,Vol.23(2015)(https://kose-cosmetology.or.jp
正倉院宝物の科学的調査から,成瀬正和,月刊うちゅう(2017)(https://www.sci-museum.jp
本の万華鏡・第29回「めーきゃっぷ今昔 江戸から昭和の化粧文化」国立国会図書館(2021年)(https://www.ndl.go.jp
「和名類聚抄・20巻」国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp
日本化学会認定化学遺産・第042号「近代化粧品工業を築いた明治の企業家たち」(https://www.chemistry.or.jp

The following two tabs change content below.

園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。