イタリア・ベネチアで東方貿易商人の家に生まれた旅行家マルコ・ポーロ,彼がアジア諸国で見聞した内容を記した旅行記『東方見聞録』で,莫大な量の金を産出する島国〝ジパング〟と記された日本。かつての日本では金を豊富に産出し,奈良・東大寺の大仏では砂金のアマルガムとして,岩手・中尊寺の金色堂では金箔として使われました。今回は,産金の歴史と共に,東西の有名な建造物を訪ねます。 |
奈良・東大寺の大仏
8世紀のはじめ,平城京では仏教と美術が融合した天平文化が華開きました。その一方で,中央政治では貴族が権力の座を巡って対立し,律令制は行き詰まり,加えて国内には天災や疫病が続きました。740(天平12)年,聖武天皇は平城京を捨て,以後,恭仁京(京都府木津川市),紫香楽京(滋賀県甲賀市),難波京(大阪市中央区)と,次々に遷都しました。
こうした中,国家鎮護のため諸国に国分寺設置の詔が出され,次いで743(天平15)年に大仏造営の詔が出されました。大仏建立は,当初の紫香楽宮での計画が実現せず,総国分寺である東大寺の一大事業となりました。
東大寺の大仏
出典:Kochizufanによる”大晦日の東大寺大仏、奈良”ライセンスはCC BY-SA 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)
大仏(毘盧遮那仏坐像)の鋳造は,銅(400㌧余)と錫(7㌧余)を主要材料として,747(天平19)年から八度に分けて行われました。その表面には金が鍍金され,それには金(430㎏余)と水銀(2000㎏余)が使われました。材料の金属は当時に諸国で開発されていた鉱山で賄われましたが,鋳造をほぼ完了する目途がたった749(天平21)年になり,仏体表面の鍍金用の金が不足することが分かりました。
そこへ陸奥守の百済王敬福から黄金発見の報せが届きました。敬福は,百済国の王の子孫で,百済国が唐に敗れた後に日本に帰化し,陸奥国の役人になっていました。敬福は,任期中に産金地の探索を命じ,小田郡(現・宮城県遠田郡)の箟岳丘陵で砂金が発見されたのです。同地の砂金層は,北上山地を供給源として堆積した含金礫層であると見られています。
『今昔物語集』の〈聖武天皇始造東大寺語第十三〉には,遣唐使に中国の金を買い付けさせても不足したので,天皇は嘆き,東大寺造営行事官の良弁僧正に祈祷させました。ほどなくして陸奥国と下野国から黄色の砂が献上され,それで大仏を塗ったところ,量が余ったことが語られています。
『続日本記』にも,この年の春に陸奥国より初めて黄金が貢進されたことが記されています。聖武天皇は,天地開闢以来,他国からの黄金献上はあっても大倭国には無いものと思っていたところ,東方の陸奥国から金の産出の報がもたらされ,大いに喜ばれました。そこで,死罪以下全ての罪人を赦免する大赦,二度の改元(天平感宝と天平勝宝),税の減免,敬福以下の功労者への叙位が行われました。
大仏の鍍金に用いられた東北の金
6世紀半ばに仏教が伝来するまで,金は主に貴人の装飾品用で,使用量は少ないものでしたが,仏教の伝播に伴い,金は仏像・仏具・寺院内装などに用いられるようになり,需要が増えました。仏像用について『日本書紀』には,推古天皇が丈六(中国・周代の一丈六尺,人の身長の約2倍)の仏像を鞍作鳥に造らせた際,高麗国の大興王から金を贈られたことが記されています。
東大寺の大仏は更に大きく,高さ約16m,表面積は約527㎡です。敬福が最初に献上した金(約13㎏)では足りず,政府は材料の金を確保するため,752(天平勝宝4)年,多賀城以北の諸郡に金の貢輪令を発して増産を促しました。
陸奥国で産出した金は,16世紀頃までは砂金で,純度が高かったのでアマルガム法による鍍金に適していました。大仏の鍍金は,金をその約5倍量の水銀に加えてつくったアマルガムを銅像の表面に塗り,次いで木炭などで約350℃に熱し,水銀を蒸発させて行われました。
『万葉集』の巻十八には,大伴宿禰家持による「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首幷に短歌」として,反歌三首があります(以下は四〇九七の短歌のみ)
天皇の御代榮えむと東なるみちのく山に金花咲く
(須売呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久)
天皇の御代が栄えるしるしとして,東にある陸奥国の山に黄金の花が咲いた,という喜びの歌です。
2019(令和元)年には,日本遺産「みちのくGOLD浪漫 黄金の国ジパング,産金はじまりの地をたどる」(宮城県気仙沼市・本吉郡南三陸町・遠田郡涌谷町と岩手県西磐井郡平泉町・陸前高田市)が認定されました。
平泉の中尊寺金色堂-夏草やつわものどもが夢の跡
2011(平成23)年,中尊寺,毛越寺,観自在王院跡,無量光院跡,金鶏山がユネスコの世界文化遺産に登録されました。(登録資産名は「平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」)
現在,国宝は,1950(昭和25)年の文化財保護法で指定された重要文化財のうち,特に優れたものです。戦前からの文化財を加え,建造物200棟余を含む1000件余が指定されています。それらの中で,栄えある指定番号1を与えられているのが中尊寺金色堂です。
これは,1951(昭和26)年が初回となった指定対象のうち,中尊寺金色堂が最も北に位置するからで,この年の指定対象には,中尊寺金色堂のほかに,円覚寺舎利殿(神奈川県鎌倉市),石山寺多宝塔(滋賀県大津市),平等院鳳凰堂(京都府宇治市),法隆寺五重塔(奈良県生駒郡斑鳩町)など,おなじみの建造物が名を連ねています。
版画家・川瀬巴水の絶筆「平泉金色堂」
出典:川瀬巴水による”「平泉金色堂(絶筆)」、木版画”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)
中尊寺金色堂は,奥州藤原氏の初代清衡が1124(天治元)年に建立しました。清衡は,安倍氏の婿でしたが,安倍氏は前九年の役(1051~1062年)で滅び,その後は敵方の豪族である清原氏のもとで育てられました。1087(寛治元)年に後三年の役が終わり,奥州の実権者となった清衡は,長く続いた戦役の苦い経験から平和の実現を希求し,平泉に移ってから,戦の犠牲になった敵味方全ての人々の霊を慰め弔うために中尊寺の建立を始めたのです。
2006(平成18)年に行われた金色堂の解体修理時の調査で,使用木材の伐採年代は1114年から1116年頃と判断されました。金色堂は,その名のとおり金色の仏堂(一辺5.5mの方形,高さ8m)で,扉・壁・軒・縁・床の総てが漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられています。
金箔の製造は紀元前1200年頃の古代エジプトにさかのぼるとされます。金は1㎤の塊から約10㎡の箔にすることができ,現在,多く用いられる規格では厚さが約0.0001㎜です。
東北地方は古くから主要な産金地で,8~16世紀にかけては宮城県の気仙沼一帯で大量に産出し,金色堂の金もここで調達されたと考えられています。その砂金は,関西地方に産する弱竹でできた長さ八寸(約24㎝)の細い筒に詰められて京に運ばれ,京では大陸渡来の銅銭や絹製品などが仕入れられて平泉へと運ばれました。
奥州藤原氏は,源頼朝の討伐を受けて1189(文治5)年に滅亡し,多くの壮麗な堂塔伽藍が焼失しましたが,金色堂は残りました。中尊寺の経蔵別当であった心蓮大法師が,残存する寺塔などを源頼朝に寄附する旨を申し出た文書の中に,金色堂は天井・床・四壁・内陣は全て金色と記され,兵火を免れてなおも輝きを失わなかったことが分かります。
金の産出とその使用
古代から中世にかけて,金の授受は砂金のまま布袋や紙に包んで行われました。この頃までは砂金を熔鋳する技術がありませんでしたが,砂金のままの方が,細分するのに便利であり,加えて真偽の判別にも好都合でした。
しかし,産金量が増え,賜金などの儀礼的なものから貨幣としての機能が大きくなるにつれて,金の使用の形状は,鋳塊,それを打ち延ばした板状の「板金」,更に板金を切断して秤量した「切金」が現れ,やがて一定の量目の金貨へと変わっていきました。
金鉱石
(秋田大学鉱業博物館所蔵,
秩父鉱山産・中瀬鉱山産)
奈良時代から平安時代末期までは陸奥国の砂金が唯一の産出でした。その後,戦国大名によって軍資金・恩賞などのために甲斐国や佐渡国など各地に金山が開発され,金鉱石の産出は増加しました。さらに,秀吉・家康による全国統一のもとで全国の鉱山は直轄化され,明治の近代化以後は,政府の中央官庁が管掌して国の貨幣制度や諸産業の発展に貢献したのです。
参考文献■
「新訂新訓万葉集・下巻」佐佐木信綱編(岩波書店,1973年)
「新編日本古典文学全集35 今昔物語集①」馬淵和夫他校注・訳(小学館,1999年)
「新編日本古典文学全集3 日本書紀②」小島憲之他校注・訳(小学館,2006年)
「ワイド版東洋文庫489 続日本紀2」直木孝次郎他訳(平凡社,2008年)
「現代語訳 吾妻鏡 4奥州合戦」五味文彦・本郷和人編(吉川弘文館,2008年)
「日本の金」彌永芳子著(東海大学出版会,2008年)
「天平の産金地,陸奥国小田郡の山」鈴木舜一著(地質学雑誌,第114巻・第5号,2008年)
文化財保護法制定後の国宝建造物指定方針と戦後の「国宝」概念の形成,青柳憲昌・岩月典之・藤岡洋保著,日本建築学会計画系論文集,第77巻・第678号(2012)
「邪馬台国は「朱の王国」だった」蒲池明弘著(文藝春秋,2018年)
宮城県涌谷町のホームページ(www.town.wakuya.miyagi.jp)
園部利彦
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