草創期の理化学研究所で、農学者の鈴木梅太郎、物理学者の長岡半太郎とともに「理研の三太郎」と並び称された冶金学者の本多光太郎は、永久磁石のKS鋼を発明し「鋼鉄の父」とも呼ばれます。彼が遺した言葉から、その人となりをご紹介します。 |
鈴木梅太郎は1874年静岡県生まれ、米糠が脚気予防に有効であることを発見し、成分を抽出して「オリザニン」と命名したことで知られ(後にビタミンB1)、長岡半太郎は1865年長崎県生まれ、土星型の原子モデルを提唱しました。それにしても「三太郎」とは言い得て妙で、彼らはそれぞれの業績によって理研の基礎を盤石にしました。
「不孝の罪は他日の成業で償うゆえ」
本多光太郎は、愛知県岡崎市新堀町に三男三女の末子として1870年に生まれました。父は孝太郎と命名して届け出ましたが、戸籍には誤って光太郎と登録されました。父がその誤りに気付いたのは半年後で、役場では訂正の理由が無いとしてそのままにされました。
生家の門
父は、長男が家業を継ぎ、次男の浅治郎と同様に光太郎も都会に出て学問をと考えていましたが、光太郎が10歳の時に亡くなりました。学校で世界に眼を向け志を高く大きく抱けと諭された光太郎は、人のためになる仕事を見付けるには学問が必要と考え、納屋の二階で勉学に勤しみました。納屋は東公園(岡崎市欠町)に移築・保存されています。
本多光太郎記念館として移築された納屋
二階・勉強部屋、一階・展示スペース(岡崎市・東公園内)
浅治郎に続いて自分も東京で学問をしたいと家族に話したものの認められなかった光太郎は1886年春、「不孝の罪は他日の成業で償うゆえ、今は死んだものと思ってください」と記した手紙を残して家出しました。家出は失敗しましたが、以来家族は考え直しました。
希望が叶って上京してからも粘りと忍耐で勉学に励み、一高理科に入りました。級友には同じく農家出身の鈴木梅太郎がいて、農科に入ろうと誘われましたが、浅治郎は、日本では農家は7割以上、その出身者が皆農科を選べば大学生の7割以上が農科生になる、と光太郎に再考させました。本多は,自然科学の基礎は物理学にあるとする山川健次郎の考えに従い、1894年、東京帝国大学理科大学物理学科に入学したのです。
「塀を跨いで出入りするようなことは」
本多は、田中館愛橘らの影響を受けて地球物理学、磁気学へと向かいました。大学院へ進む際に彼は母にこう言っています。-「ニュートンが言っております。自分たちは随分勉強した。学者と弟子とは昔から何代にもわたって研究してきた。けれどもそれで何が判ったかといえば、大きな太平洋の波打ち際で貝殻を拾ってそれを眺めて、それによって太平洋はこんなものだろう(中略)と推定したり想像したりしているようなものだ。本当の真理の大海は実際は何にも判ってはいないのだ」、「イギリスでもドイツでもアメリカでもみんなでやっているのに日本人だけはやらん、そういうことは許されません」
日清戦争の戦後処理が三国干渉に終わり、義憤に燃え悲憤に震える学生に向かい田中館は、これも日本の文明が低いからで、学術が進めばこの恥を雪ぐことができると説きました。本多は、その血気を学理追究に注ぎ、実験物理学の田中館、理論物理学の長岡から薫陶を受けました。
この頃から本多は実験に徹し、その姿勢を終生変えませんでした。研究テーマは金属材料の磁性の温度変化でした。夜遅くまで研究室には灯りが点り、終了まで帰宅できないのに困った守衛が、赤門近くの塀から出入りできると教えた時、本多はこう言いました。-「僕は塀を跨いで出入りするようなことは今までしたことがないのです。これからも、人間というものは犬や猫ではないのだから門があったら門から出入りするものだと思うとります。僕はきっと立派な仕事をします。日本の役に立つような仕事をやります。その代わり泥棒のように塀を乗り越えることだけは許してください。」 門衛は大いに理解を示してむしろ好感を抱き、大器を見て取ったといいます。
「この近所にもっとええ奴がある」
1906年に東北帝国大学が開学し、本多は田中館の推薦で、独英留学を経て教鞭を執ることになりました。1915年に同大学理科大学に臨時理化学研究所が併設され、本多は鉄鋼研究の部署の主任になりました。研究予算の不足を補ったのは住友財閥の鈴木馬左也で、年7千円を3年間寄付しました。 (この金額はどれほどか? 国家公務員の初任給で比較すると、1918年(高等官)70円、2015年(大卒総合職)18万円余ですので約1800万円に相当します。)
本多は、実用性に鑑みて戦時研究に柔軟に対処するも、あくまで物理学者として学究的な立場を貫きました。KS鋼の開発は臨時理化学研究所時代のことで、その契機は、軍が航空機用発動機に良質の磁石鋼を要請したことでした。実験担当の高木弘に対して本多は、成分の配合を細かく指示し、結果を見ながら、「この近所にもっとええ奴がある、必ずある。その一番ええ奴を、これだ・・・と摑み当てなければいかん。もうここまで来たらまわりを丹念にさがせば良い。虱潰しだ、0.1%ずつ動かしてみて、下がるようならその方角は後回しにする。上がるようならそれをずーっと追いかけてみてどこまで上がるか、その頂点を見付ければ良い」と助言しました。
狭い実験室で1500℃以上での熔解作業を行う高木は熱さに閉口しました。本多は、普通の服装では仕事にならないと消防服を提案しました。高木は苦労して手に入れた中古品で身を包み、それに水をかけては炉に向かったといいます。そしてついに見出されたのが、
Co:30~35% W:6~8% Cr:1.5% C:0.8%
を含む鋼(1918年・特許第32234号特殊合金鋼)で、KS鋼という名は住友家の当主が代々名乗る住友吉左衛門の頭文字から採られました。
KS鋼の残留磁束密度は約1.1 T、保磁力は約20 kA/mで、1917年に住友鋳鋼所から販売され、当時世界最強の永久磁石でした。しかし、その強力過ぎる性能から他の部品と調和せず、当初の目的であった航空機への使用はできなかったといいます。
炭素鋼でも焼入れによって4~5 kA/m程度の保磁力が得られますが、KS鋼はその数倍もの保磁力を有しました。保磁力の増加は添加された元素と熱処理によるもので、特にコバルトの添加による鉄の磁気歪みの増加が大きいと考えられています。
本多は1916年に帝国学士院賞、1922年には英国鉄鋼協会のベッセマー賞、1937年には映えある第一回文化勲章を受けました。東北大学・片平キャンパスにある本多記念会館には胸像があり、台座には「金属之 密林の 大いなる 開拓者」と刻まれています。
本多光太郎先生像(東北大学・本多記念会館)
KS鋼の発見は永久磁石材料開発の契機となり、日本の技術は以後も世界的に高水準を保っています。永久磁石は、他の磁性材料とともに電動機、発電機、トランス、スピーカー、さらには各種の磁気的記録装置に広く使われています。
参考文献:
「本多光太郎傳」石川悌次郎著(日刊工業新聞社 1964年)
「続値段の明治・大正・昭和風俗史」週刊朝日編(朝日新聞社 1981年)
「本多光太郎 マテリアルサイエンスの先駆者」平林 眞編、本多記念会監修(アグネ技術センター 2004年)
園部利彦
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