稀ガスで最初に発見されたアルゴン(18Ar)は,単原子分子の不活性な気体です。空気中に体積・質量共に約1%含まれ,水蒸気を除くと窒素,酸素に次いで三番目に多い成分です。アルゴンは空気を構成する気体の密度の測定結果を検討する過程で見出されました。 |
原子量の確定に向けて
レイリー卿(本名・J.ストラット)はエセックスに生まれ,1861年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入りG.ストークスに数学を学びました。
1868年,レイリーは,実験設備を買い集めて領地内に私的な実験室を設けました。父の死後には爵位を受け継ぎましたが,7000㌈に及ぶ領地の管理は弟に任せ,1876年から科学研究を再開して,1879年にはキャヴェンディッシュ研究所の所長となりました。
レイリーの研究は物理学の全般にわたり,とりわけ音響学,弾性波の研究は優れていたとされます。そして1882年に気体の密度の再決定を提案しました。
トリニティ・カレッジの鳥瞰図(17世紀)
出典:David Logganによる”Trinity College Cambridge 1690”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)
1815年,イギリスの医師W.プラウトは,原子の内部構造に関する仮説を提示しました。プラウトは,当時既知の元素について,測定された原子量が水素の原子量の倍数になっているとして,各原子はそれぞれの数の水素原子から成ると考えました。プラウトの仮説によると原子量は整数になるはずですが,実際はそうではなく,プラウトの仮説と原子量の測定値のどちらかに誤りがあると考えられました。
原子量の確定は化学界の大きな課題となり,それには水素と酸素が化合する質量の割合を知ることも不可欠で,多くの化学者が取り組みました。
窒素の密度に関する議論
1882年の大英学術奨進協会年会で,同協会第一部(数学・物理学)の部長であったレイリーは,水素と酸素の密度の測定結果を発表しました。密度が検証されたのは,この頃,原子量は密度から計算されていたからです。
レイリーは先ず,酸素,窒素,空気の1㍑あたりの質量について,
酸素:1.4295g 窒素:1.2572g 空気:1.2933g
という測定結果を示しました。これらの値から空気中の酸素と窒素の体積の割合を計算すると,酸素20.95%,窒素79.05%となり,かつてH.キャヴェンディッシュ,J.ドルトン,J.ゲイ・リュサック,R.ブンゼンらが求めた結果とよく一致するとしました。
次にレイリーは,上記の測定に関連して,窒素の密度が製法によって異なる値になることも報告しました。具体的には,
a)赤熱した銅や鉄に空気を通じて酸素を吸収させたり,水酸化鉄(Ⅱ)の沈澱に空気中の酸素を吸収(①式)させたりして得られた窒素は,1㍑あたり1.2572gであった。
4Fe(OH)2+O2+2H2O→4Fe(OH)3 …①
b)二酸化窒素,亜酸化窒素の赤熱鉄上での分解(②式),亜硝酸アンモニウムの熱分解(③式),尿素の次亜臭素酸ナトリウムによる分解(④式)で得られた窒素は,1㍑あたり1.2505gであった。
2NO2→N2+2O2 2N2O→2N2+O2 …②
NH4NO2→N2+2H2O …③
(NH2)2CO+3NaBrO→N2+3NaBr+CO2+2H2O …④
このように,空気から酸素を除去した後の残余気体の密度(a)と,窒素化合物の分解で得られた窒素の密度(b)を較べると,常にa>bであり,その差は1㍑あたり0.006g(N2=28に対して約0.5%)でした。
その一方で,酸素については,水の電気分解,塩素酸カリウムの熱分解(⑤式),過マンガン酸カリウムの熱分解(⑥式)で得られた酸素のいずれでも,1㍑あたりの質量は先述の値(1.4295g)とほぼ同じでした。
2KClO3→2KCl+3O2 …⑤
2KMnO4→K2MnO4+MnO2+O2 …⑥
窒素の密度が製法によって異なる値になる原因については次のⅰ,ⅱが考えられました。
ⅰ)酸素の同素体オゾン(O3)のように,窒素にもN3なる同素体があって,aではそれを取り除くことができなかったこと。
ⅱ)bで窒素化合物が分解する際に一原子分子(N)が生じたこと。
レイリーは,雑誌『ネイチャー』(1892年9月29日号)に投稿し,化学者たちからの意見を求めました。1894年4月にレイリーはW.ラムゼーと面会し,この問題について意見を交わしました。ラムゼーは上記のⅰ,レイリーはⅱの立場でした。
アルゴンの発見
ラムゼーはレイリーと協議し,大気中の窒素について更に追究することになりました。この頃,ラムゼーは,当時化学界でもう一つの課題であった窒素と水素からのアンモニア(NH3)の直接合成も研究しており,種々の触媒を試しましたが,その首尾はうまくありませんでした。しかしラムゼーはその過程で,マグネシウムが高温で窒素と反応して窒化マグネシウム(Mg3N2)を生じることを見出しました。
3Mg+N2→Mg3N2
そこでラムゼーは,耐熱ガラス管にマグネシウム粉を入れて赤熱させ,予め酸素・水蒸気・二酸化炭素・塵埃を除去した空気を管に導いて何度も往復させました。残った気体は40㎤で,その密度は反応前の約15/14倍になっていました。
窒化マグネシウム
出典:2×910による”A sample of magnesium nitride(Mg3N2)”ライセンスはCC BY-SA 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)
一方,レイリーは,窒素と酸素の混合気体に電気火花を飛ばして二酸化窒素を得,これは酸性酸化物なのでアルカリに吸収させると,元の体積の約1/84が吸収されずに残ることを認めました。
ところが既に1785年,キャヴェンディッシュは,窒素と酸素の混合物に電気放電を行い,両者を完全に反応させて除去した後に少量の気体が残ることを認めていました。その体積は元の1/125以下であったこと,電気放電を続けてもそれ以上変化しなかったことが記録されています。レイリーの結果よりは少量でしたが,問題は量の多寡ではなく,100年余の間,キャヴェンディッシュの実験結果が化学者によって注目されてこなかったことにあります。
ここに至ってようやく,空気中には酸素・窒素・二酸化炭素・水蒸気のほかに未知なる気体が存在することが,疑う余地のない事実となってきました。そこでレイリーとラムゼーは,この未知気体が空気中に予め存在していたのであって,窒素とマグネシウムの反応や窒素と酸素の反応で生じたものではないことを確かめる必要がありました。
彼らは,T.グレアムによって示された,二つの気体の拡散速度の比は各々の密度の平方根に逆比例する,ということを利用しました。もし空気中に窒素,酸素よりも重い気体がはじめから含まれているならば,多孔質でできた管に空気を通じると,より軽い窒素と酸素は孔を通過して早くに拡散していくので,管の出口から得られる気体は重い気体を以前よりも多く含むことになり,密度が増すはずです。実験の結果は正にそうでした。
二人はまた,窒素・酸素・未知気体の水への溶解量を調べることによっても未知気体が予め空気に含まれていたことを証明しました。
ラムゼーは8月に1㍑あたり19.086gである気体100㎤を得ました。ラムゼーはその気体を入れたアンプルを分光分析の試料としてW.クルックスに送りました。
アルゴンのスペクトル
出典:(teravolt (talk))による”Argon spectra using a 600lpm diffraction grating.”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)
かくしてラムゼーとレイリーの両人は,空気を構成する新たな元素を各々独立に確認しました。レイリーはラムゼーに新たな気体の単離を共同で発表しようと提案し,ラムゼーはそれを受け入れて,1895年1月に実験結果が正式に報告されました。新元素は,反応性が低い性質から,ラムゼーによってギリシア語の「働き,活力」を意味するεργονに否定語を付けてアルゴン(argon)と名付けられました。なお,元素記号については,レイリーとラムゼーは未知のスペクトル線を与える元素をRとしていましたが,H.ニューオールがAを使うべきであると提案しました(元素記号は後にArになりました)。
ラムゼーが指し示すアルゴンの元素記号「A」
出典:Wellcome Imagesによる”Sir William Ramsay. Coloured photogravure by Sir L. Ward (Sp”ライセンスはCC BY 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)
参考文献
「ネイチャー」1892年9月29日号,46,512~513
「化学暦」村上枝彦著(みすず書房,1971年)
「周期系の歴史・下巻 個々の問題とその解決」J.スプロンセン著,島原健三訳(三共出版,1978年)
「化学史傳」山岡 望著(内田老鶴圃新社,1979年)
「新訂定性分析化学 中巻・イオン反応編」高木誠司著(南江堂,1984年)
「元素発見の歴史3」M.ウィークス・H.レスター著,大沼正則監訳(朝倉書店,1990年)
「化学元素発見のみち」D.トリフォノフ・V.トリフォノフ著,阪上正信・日吉芳朗訳(内田老鶴圃,1996年)
「元素118の新知識」桜井 弘編(講談社,2017年)
園部利彦
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