亜鉛(Zn)-中国から欧州に伝わった金属

 亜鉛は,金属(単体)として取り出される何世紀も前から銅との合金である真鍮しんちゅう(黄銅)として用いられ,18世紀に入って近代的な製錬が行われるようになりました。今回と次回は亜鉛についてのお話です。

中国の「倭鉛わえん

中国における真鍮の古名は「鍮石とうせき」です。5世紀に鳩摩羅什くまらじゅうが訳した『妙法蓮華経』には,仏像を造る材料の冒頭に鍮石(ほかに赤銅・白銅など)が挙げられており,鍮石は鉱石ではなく金属であることが分かります。
中国での亜鉛利用の歴史について,中央研究院の王璡おうしんによる1920年代の研究では,次のように四期に分けられます。金属としての亜鉛が認識されたのは明中期以降とされます。

時期 特     徴 亜鉛の認識
~隋 鉛中に不純物として含まれる亜鉛が銅合金に使われた。
炉甘石ろかんせきと銅で鍮石をつくり,合金中の亜鉛含量が増加。
宋~明初期 炉甘石または鍮石を貨幣材料に入れた。
明中期~ 炉甘石から亜鉛の単体を得た。

亜鉛は,明以降の中国では「倭鉛」と呼ばれました。明代末の宋応星そうおうせいによる産業技術書『天工開物』(1637年刊)には次のように記されています。(現代文訳)
-亜鉛は古書には元々無い物で,近頃になって知られた名称である。この物は炉甘石を製錬してできる。山西の太行山一帯に多く産し,けい州(湖北省),衡州(湖南省)はこれに次いでいる。炉甘石一斤ずつを一個の素焼の坩堝るつぼに詰め込み,泥で包み固め,ゆっくりと乾かし,火によってけ割れないようにする。その後で一段ずつ坩堝と煤炭餅メイタンビンを積み重ね,その底に薪を並べ火を点けて赤く焼き上げると,坩堝中の炉甘石は熔けて塊となる。冷却しきってから,坩堝を壊して取り出すと,二割の目減りをしている。これが亜鉛である。この物は銅に混ぜないと,火に入れてすぐに煙になって飛び散る。それが鉛に似てしかも性質が猛烈なので,倭鉛という名がついたのだ。

ここで「倭」は,文脈からは「性質が激烈な」の意味ですが,東洋文庫『天工開物』の本文注には“倭寇わこうの害を激しく受けた明末の世相を反映して興味が深い”とあります。倭鉛が明代に中国沿岸各地で猛威を振るった倭寇を踏まえての造語であるとする考え方は歴史考証的には成り立つ一方で,「倭」は「低級な,劣った」の意味とする説もあります。

日本では,「真鍮」の語は江戸期に現れ,「亜鉛」の語は『和漢三才図会』(1712年刊)以降に見られます。『和漢三才図会』は,大坂の医師寺島良安が編纂した絵入りの百科事典(全105巻)で,明の王圻おうきによる『三才図会』(1609年刊)に範をとって,古今和漢の事物が天文・人物・器物・地理などに分類して解説されています。そのうちの〈巻第五十九 金類〉が金属の章で,亜鉛と鍮石の項から一部を以下に引用します。(現代文訳)

亜鉛とたん〔止多牟。蕃語である〕(ポルトガル語から転訛した語)
思うに,これはどんなものかまだよく分からない。甚だ鉛に類似している。それで亜鉛と称する。(中略)恐らくこれは炉甘石を煉成したものであろうか。『本草綱目』に,炉甘石は銅と和して鍮石しんちゅうにつくる,とあるからには間違いないが,しかし製法はよく分からない。
鍮石しんちゅう 真鍮〔俗称〕〔『和名抄』(玉類第百五十三)に中尺とある〕
『字彙』に,鍮石は金に似た銅である,とある。(中略)むかしは製法を知らなかった。近年になって造るようになったが,まだよいものではない。それで中華から来るものだけを真鍮としていた。いまは多くわが国でも造り,しかもいものが出来るので,みな通じて真鍮と称している。(後略)

鉛に似ていることから名付けられた「亜鉛」が「トタン」と読まれていたこと,鍮石のうち良質のものの意味で「真鍮」の語ができたことが分かります。

中国において真鍮が歴史上早くにつくられたのは,銅と亜鉛を共に産出する鉱山と,1000℃近い高温で還元反応が行える炉の存在によると考えられ,山東省胶県での考古学的な調査でそのことが確認されています。また,古代遺物のうち,殷・周時代の青銅器の亜鉛含有量は0.12%程度(ないしは全く含まない)であるのに対して,前漢末の王莽おうもうによる貨幣では4~7%(銅87~91%,その他の成分は錫・鉛・鉄)であることが分かりました。

唐代の役人(官人かんじん)の階級(品階ほんかい)は官品かんぽん令に規定され,一ほんから三品までは正・従の各2段階,四品から九品までは正・従・上・下の各4段階に分けられ,計30の品階から成ります。唐の中央政界では隋代に続いて貴族勢力が強く,科挙による人材登用も含めて官僚制が整備されていました。7世紀の『唐じょ』によれば,冠服には,六品と七品は銀帯,八品と九品は鍮石帯,庶人は銅鉄帯を用いると記され,このことから鍮石は銀に次ぐ貴重な金属であったことがうかがえます。

真鍮は貨幣,装飾品,工芸品,更には細粉や乳濁液にして金色塗料としても使われ,その製法は宋代から清代の著作に絶えず現れます。亜鉛含量40%程度までが黄金色で,亜鉛が多いと色はうすくなり,少なくなると赤みが増します。また,亜鉛が多くなると硬度と共にもろさも増し,45%以上では実用に耐えません。

 

 

 

 

 

真鍮製のSDGsバッジ

(回収薬莢からの再生加工品)

 

西洋における初期の亜鉛製錬

西洋では,17世紀の鉱山従事者たちは,卑金属は土中で金・銀のようなより完全な金属に成長していくと信じていました。ドイツの薬剤師J.グラウバーは,採掘された鉱石の試金分析で銀が見出されなかったと分かると,鉱山の人々が「あぁ早く掘り出しちまった…」と言ったことを記録しています。
西洋で金属元素としての亜鉛が発見されたのは18世紀になってからです。発見が遅れた理由としては,それまでの冶金術者が鉱石を炉で加熱する際,揮発性である亜鉛を捕捉できなかったことや,合金としての用途以外に注目されなかったことなどが考えられます。

亜鉛の製法は18世紀に中国からイギリスに伝わりましたが,中国から欧州への亜鉛輸出の始まりは14世紀初めからとも17世紀初めからともされます。1745年に広州を出航し,18か月の航海を経てスウェーデン沖で沈没した船から,1872年に積み荷が引き揚げられたとき,回収された亜鉛インゴットが分析され,純度は98.99%(不純物は鉄・アンチモン)でした。このことから,中国では良質の亜鉛が大量に生産されていたことが立証されました。

1746年,ドイツの化学者A.マルクグラフは,酸化亜鉛(ZnO)をコークスと共に空気を遮断して加熱し,亜鉛の単体を得ました。これによりマルクグラフが亜鉛の発見者であるとされます。次回は亜鉛の製錬法について詳しくみることにします。

 
亜鉛のインゴット(岐阜県飛驒市神岡町・神岡鉱山資料館)

 

参考文献■
「東洋文庫130 天工開物」宋應星撰,藪内 清訳注(平凡社,1969年)
「東洋文庫476 和漢三才図会8」島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注(平凡社,1987年)
「元素発見の歴史1」M.ウィークス・H.レスター著,大沼正則監訳(朝倉書店,1990年)
「中国化学史」島尾永康著(朝倉書店,1995年)
「世界で一番美しい元素図鑑」T.グレイ著,武井摩利訳(創元社,2010年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。